勲章
それに気がついたときには、既にその日はもう「一昨日」だった。
今週初めに、わたしは入社10年目を迎えていた。
大企業なら表彰でもあるのだろうが、何しろいまの会社ではそういうことに気を回すのが、他ならぬわたし自身の役割なので、自分の記念日は何事もなく、自分すら気がつかぬまま、静かに過ぎた。
勤め人として一生を貫いた父は勤続ン十年というごとに、壁掛け時計だとかを貰って帰ってきた。
そのン十年が「10年」の倍数であるということを思うと、敬意を軽く超える感情が沸き立つ。
今月頭に社長とわたしで合わせて二百名近い求人応募の面接をした。
途中で応募を打ち切らなければ千人近い求人があったと思われる。
十人、いや二十人に一人ぐらい、「美しい履歴書」に出会う。
わたしが美しいと感じるのは、職務経歴に書かれたたった一行の会社名を見たときである。
別にいくつも会社を転々としている方が悪いとは言わない(わたしも転職組だし)。
でも、わたしは長きに渡ってひとつところに身を置いた人に会うと必ず言う。
「美しい履歴書ですね」と。
面接は最初か最後に相手を褒める言葉を添えるようにしている。
手にした鞄だったり、目ヂカラだったり、声だったり。
さて、来るものがいれば、去るものもいるのが世の常なのか…
緑色の封筒に入った退職願を貰ったのは初めてだった。
進路は既に決まっているようなので、ことさら言うこともないが、辞めてゆく彼が残したいくつか非難の言葉の中に、わたしへ向けられたものもあった、ということを間接的に知った。
なぜだろう?
わたしは何も思わなかった。
何も思わなかったから、何の感情も顔に出なかったはずだ。
そのことで余計に心配をかけたのか、事情を知っている者が、昼休みにわたしに声をかけてきた。
「所詮、負け犬の遠吠えですよ。気にしてはいけません。あなたは間違っていません」と。
なぜだろう?
この励ましに対しても、わたしは何とも思わなかった。
しかし、わたしは自分より遙かに年長の彼に、勤続十年を迎えた話をした。
ひとから見れば恵まれた十年だったかもしれない。
いい上司に恵まれ、成長過程の中小企業に身を置き、取締役にまでなって、ひとの何倍かの給料を貰っている。
自動車通勤が許され、出社するとお茶が出される。
恵まれていると思うか?と尋ねられれば、否定するつもりはまるでない。
ただ、与えられるだけの十年ではなかったとは言える。
恵まれてはいるが、恵んでもらったつもりはない。
この十年には、この十年でしかありえなかった喜びも悔しさも苦悩も充実もあった。
だから、この十年は誰の為でもなく、わたしだけの(自分でも忘れるぐらいの)密かな勲章なのだ。
わたしがそれを話した唯一の相手は、わたしの言葉にこう応えた。
「これからはわたしもご一緒します」
それでもわたしの表情はたぶん変わらなかったと思う。
しかし、不覚にも涙が出そうになった。
会社では、まだ泣けない。
【678/1973】
by tabijitaku
| 2009-06-24 23:36
| 私が私であるための1973枚