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新しい地図

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「無人島に本を1冊持っていくとしたら、何を持っていく?」

こんな質問をされたことがある方、あるいはしたことがある方はわりと多いんじゃないだろうか?実際に無人島に行ったとき、わたしは本を持参しなかったので本が必ずしも必要であるとは思えないのだが、それでもあえて1冊選ぶなら、「地図」と答えるだろう。

地図、それもダンゼン昭文社の地図がいい。
各地方ごとに発行された昭文社のでっか字シリーズの道路地図をわたしは日本全国分持っている。
いくつもの地方を跨る盆やゴールデンウィークの旅行にはそれを数冊バイクに積んでゆく。

バイク旅行のときはいつでも地図を取り出せるように、フロントガラスの内側に差し込んでおく。風雨にさらされるので、当然地図も痛む。それでも何年も同じ地図を使い続けてきた。
あれは有名な軽井沢のユースホステルに泊まったときだった。
わたしのボロボロの道路地図を見たホテルの受付の女性は「使います?」と言って、セロテープを貸してくれた。

地図のページは修復だらけだが、残っているのは疵だけではない。
たくさんの書き込みも残されている。

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佐渡島へ行く前日に立ち寄ったロシア村はいまではもう廃墟になっている。
「現役」のロシア村に足を運べたことがいまとなっては貴重な体験だ。
このときは地図だけ辿り着けなくて、何人もの地元の方に道を尋ねた。

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現地で迷うことも多いので電話番号はよくメモしている。
実際に電話することはほとんど無いのだけど。

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伊豆半島や房総半島は「海」がメモスペース。
たっぷりとしたスペースに書き込みができる。

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知らないひとが見たら意味不明なメモ書きにも旅の思い出はちゃんと残っている。

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先週、とうとう関東版のでっか字道路地図を買い直した。
あまりにも新しい道路、特に高速道路ができたことによって、古い地図に不便が出てきたからだ。
新しい町には新しい地図が必要だ。昼休み、地図を見ながら後輩に教わった道を目で追っていたら、あまりにも鮮やかな裏道の繋がりに、鳥肌が立った。
縦横無尽に張り巡らされたその道は必ずどこかに繋がっていて、そこに道があるということは、わたしはそこに行けるということだ。
どんなにカーナビが便利でも、やっぱり地図を見ることから旅は始まるのだ。
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by tabijitaku | 2010-06-22 08:49 | 私が私であるための1973枚

あ、ごめんなさい。

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ズボンと下着をおろして、便座のフタの上にうっかり腰掛けてしまったときのきまり悪さと言ったら無い。
ましてやそのフタに向かって「あ、ごめんなさい」と口にしてしまったため恥ずかしさ倍増。
個室の外にいる誰かにいまの声を聞かれやしなかったかとドキドキした。
(幸いそのときトイレには他にひとがいなかったが)
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by tabijitaku | 2010-06-15 07:05 | 私が私であるための1973枚

夏の扉

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転機というものが、もしも1枚の扉だったとしたら、それは部屋から部屋へ移動するようなものではなく、日々歩いている道に忽然と現れ、それと気づかぬまま呆気無く通り過ぎてしまうものかもしれない。

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目に映る風景が劇的に変わるとか、天地がひっくり返るような価値観の逆転が起こるとかではなく。
ポケットの中のビスケットがシケるように、いつのまにかカマキリに触れなくなっているように、気がつけばミロを飲まなくなっているように、境目の分からないまま季節は移ろいゆく。

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最近、知り合ったひとにカブトムシの採り方を熱心に教わった。
ビールとバナナを発酵させたものを「シカケ」に使うといいらしい。
今年の夏はカブトムシがたくさん採れると思う。
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by tabijitaku | 2010-06-13 10:48 | 私が私であるための1973枚

重なり合う時間

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通勤途中に喫茶店でコーヒー豆を買う。
200g入の豆を2袋買ったら、サービスなのかマッチ箱が一緒に入っていた。
わたしは煙草は吸わないがマッチ箱は密かに集めているので嬉しかった。

豆を挽き、お湯を沸かし、フィルターをセットし、フィルターを沸いた湯で湿らせ、挽いた豆を入れ、3回に分けて湯を注ぐ。
コーヒー一杯入れるまでの過程にはけっこう待ち時間があって、最近のわたしは青竹踏みしながらコーヒーを淹れているが、マッチをすり煙草1本吸う時間は、案外コーヒーを淹れる時間と重なり合うような気がする。
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by tabijitaku | 2010-06-11 07:15 | 私が私であるための1973枚

雨上がりのダンス

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夜空からヘリコプターの音が聴こえたので思わず足を止めた。
雨上がりの空には雲が多くて、ヘリコプターの姿を確認することができなかった。
ふと、わたしの前方に同じように足を止めている女性がいた。
彼女は開いたままの傘をくるくる回しながら踊っていた。
ちょっと道化じみたダンスだった。
市民体育館の窓ガラスに向かって、そう若くも見えない女性が1人踊っている。
体育館の前にはわたし以外誰もいなかったので、なおさら奇妙な光景に見えた。

ずっと窓ガラスの方を向いていたので、そこに写っているご自分を見ていてるのかと思ったら、実は「観客」はその窓ガラスの向こう側にいたのだった。
そこはたぶん託児施設のような部屋で、中から小さな女の子が手を振っていた。
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by tabijitaku | 2010-06-10 07:12 | 私が私であるための1973枚

あなたなら何を捧げますか?

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この方の作品は「影」を観てもすぐにそれと分かってしまう。
凄いことだと思う。
ちなみにこの作品のタイトルは「樹人」

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ではこちらは?
影からどんな立体を想像するか。

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花を捧げる
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by tabijitaku | 2010-06-08 07:09 | 私が私であるための1973枚

できないひとができること。

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「2週間ぐらい休ませて頂きます」

床屋の扉にそういう貼り紙がしてあった。
貼った本人はたぶん気付かなかったんだろうけど、これでは誰も床屋が「いつまで」休むかが分からない。「いつから」2週間ぐらいかが貼り紙には書かれていないのだから当然である。

勤務先で取引先に詫び状や通達文を出す際、わたしは必ず校正を頼まれる。
誤字脱字と言ったものは誰にでも、もちろんわたしにもあることでそれは構わないのだが、日本語として文法が破綻しているものや、ひどいものになるとおかしな敬語の乱用で意味不明になっている文章があったりして、わたしにはなぜ彼らが普段声に出して喋っているみたく、普通に文書が書けないのかが不思議でしょうがない。
共通して感じるのは読み手に不親切なことだ。
上の写真、「本日は800円」と書かれてしまうとわたしは「本日は」の「は」の字にまずひっかかる。
じゃあ、昨日はいくらで、明日はいくらになるのだ?
たぶん昨日も明日も、おそらく「いま」も800円なんだろうけど、せめて二重価格にして、いつもより安くしていることをアピールすればいいと思うのだが、この店ではぬいぐるみがいつも時価で売られているのだ。

文章だけではない。
絵にもついても思う。
自慢ではないが、わたしはそこそこ「絵心」があると自負しているので、例えば虎を横向きの姿で描こうと思ったら、横顔に目を2つ描いたりしないし、地面から足が3本宙に浮いているように描いたりしない。
しかし絵心のないひとというのは想像を遥かに凌ぐアングルで描き始める。
知人にもツワモノがいて、虎の絵を描かせたら彼は真上から敷物のように描いた。
お前はそういうアングルで虎を見たことがあるのか?と言いたくなる。
真上から見た虎の顔にはしっかり両目と口とおまけに鼻まであって、どう見ても首が折れているようにしか見えなかった。

喋っているように文章を書き、見たまんま絵を描くことができないひとにはできない。
そしてそれらを苦もなくできてしまうひとには、できないひとの気持ちは底理解できない。

わたしは最近ようやく自覚できたことがあって、自分は水中で2つのことを同時考えることができないのだ。
週に5回はプールで泳いでいる、というと初めての方には「泳ぎウマいんですね?」と早合点され、よく知っているひとには「泳ぎウマくなったでしょう?」と言われる。
申し訳ないが、どちらも違う。
泳ぎは元々ウマくないし、大してウマくもなっていない。
だから続けられるし、続けたいし、続けざるをえないのだ。

わたしはただ長くゆったりと気持ちよく泳げるようになりたいので、泳法もクロールだけでいいし、スピードUPも目指していない。
身体をローリングさせる、軸をぶらさない、息継ぎをするときは真横を向く、腕を伸ばす、肩を回す、足を沈めない、などなどクロールのポイントはいくつもあって、毎回それを頭に入れて泳いではみるのだけど、いざ水中に入ると腕に神経を集中させると、身体がまるでローリングできていないし、今度はローリングを心がけると、息継ぎで水を飲んでしまったりする。
一応、週に1度は可能な限り水泳教室(もちろん初心者向けの)に参加してはいるのだけど、いまの自分は間違いなくおかしな文法の日本語を書き、虎を真上から描いてしまっているのだと思う。
水泳教室の指導員はさすがプロで様々な言葉を駆使して、いろんなアプローチでクロールの極意を語りかけてくれる。それを聞くとなるほど、と頭では理解できた気がするのだが、身体はちっとも思い通りには動いてくれない。
つまり、水中のわたしはまったくもって「できないひと」なのだ。

水泳に限らず、身体を動かすことに関して、わたしは子供の頃からまるでダメで、鉄棒も逆上がりではできたけど大車輪はできなかったし、縄跳びは二重跳びがとうとうできなかった。
運動じゃないけど、フーセンガムも作れない。

話を水泳に戻すと、わたしはいわゆるカナヅチではない。
でもある本に書いてあったのだが、25メートルは泳げるとは言わないそうだ。
それは溺れずに向こう側まで辿りつけるというだけであって、泳げるというのは歩くのと同じように自分の意志で泳ぎ続けていられること、だという。
その意味ではわたしは未だ泳げないひとだ。
できないことができるようになることは容易ではない。
身体を動かすことで言えば、ひとは立つのにも苦労し、歩くことも練習し、そして自転車の補助輪を外すためにさんざん泣きべそをかいてきたのだから、大人になってから何かを克服するというのは、本当はそれぐらい「おおげさ」なことなんだと思う。

正直泳いでいて気持ちいいか?と問われればそんな余裕はまったくない。必死だし、苦しいし、息をゼーゼーさせながらやっている。
だけど、水中で同時に2つ以上のことを考えることができない運動オンチなわたしは、裏を返せば水中ではたった1つのことだけを考えていられる。
腕を伸ばすこととか、肩を回すこととか、何か1つだけを考えて、ただひたらすら向こう岸へ辿りつくためだけにモガくことで、たぶんだけどミリ単位の進歩をしている。
自分の意志でモガきながら、それでも自分にしかわからない充実感を毎日持ち帰ってこられることがいまはけっこう嬉しい。
できないひとができることは、つまりそういうことなんだと身を持って学んでいる。

本日は、25メートル14本。
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by tabijitaku | 2010-06-06 20:09 | 私が私であるための1973枚

貝殻から音が聴こえる理由

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この昭和の香りが漂う入り口は、蒲郡にあるファンタジー館。
大型駐車場がいくつもあったりするので、一昔前はそれなりの観光立ち寄りスポットであったのろう。(失礼ながら完全な珍スポットにしか見えないのだが…)
ここは「貝」のテーマパークである。無数の貝が奇妙な飾り付けで展示されている。

いま久々に観ているドラマがあって、先日観た放送にその「貝」が出てきた。
女の子が貝殻を耳にあてて「海の音がする」というシーンだった。

子供の頃、同じことをした経験のある方は多いだろうが、わたしはこのロマンティクな回答があまりにも鮮やかすぎて、なぜ音がするのか疑問を持たずに大人になってしまった。
調べてもらえばすぐわかるが、音の理由はいわゆる共鳴現象で、だから貝殻じゃなくても自分の掌を卵を包むように丸めても、ガラスコップを耳に当てても、サーというあの音は聴こえる。

だけど、貝の中に海があるという発想の前に、貝を耳に当ててみたその最初の行為が面白い。
よく見ると人間の耳は貝殻に似た形をしていると思う。
何か聴こえると思ったのだろうか?あるいは耳をあてる前に何か話しかけてみたひともいるかもしれない。

「聞こえますか?」

わたしのように貝殻から聴こえる音の正体を追求してこなかった方はけっこう多いのではないだろうか?
それは貝を耳にあてたとき海の情景を思い浮かべることや潮の香りを思い出すことがとても自然なことであり、多くの方がその「発想」に乗っかれたのだと思う。
世の中にはこういう真実より浸透している発想というのがあって、本当ではないことが本当になることを、わたし達は知っている。
朝と夕方には遠くの山が見えたり、夕日がやたらと大きく見えたり、雨上がりに虹が見えたり、もしかしたら、そういう日常の中にも、わたしが知っている本当よりも、素敵な本当を知っている方がいるのかもしれない。

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by tabijitaku | 2010-06-04 06:33 | 私が私であるための1973枚

わかっちゃいるけど辞められる♪

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「わかっちゃいるけど止められない」という名フレーズでおなじみの「スーダラ節」
あの歌の歌詞がもし「止められない」ではなく「辞められない」だったとしても、それはやっぱり時代の声を代弁した歌になりえたんではないかと思ったりする。

家のローン、養う家族、社会的な地位、職場の人間関係、自分の未来、かつて夢。
あれこれ考えたら、辞められなかったひとは、きっといまも昔もたくさんいただろう。
「辞められない」てことは当たり前だけど、「続けていく」ということだ。

辞めて責任をとる、という考え方は「切腹」の文化がある日本ではどこか潔い引き際のように美しく語られたりするけど、わたしは辞めさせるように仕向ける世間にも、あるいは世間は辞めさせたがっている、と報道するメディアにも正直気持ち悪さを感じている。

「国民が聞く耳を持たなくなった」という一瞬、耳を疑うような発言をして退陣した我が国の総理大臣は、やっぱり頭のいいひとなんだろうなと思った。
彼は「わかっちゃいるけど辞められた」人なのではないだろうか?
国民が聞く耳を持たなくなったのは「総理」の声ではないのかもしれない。
皮肉にも彼が辞めたことで問われるのは実はずっとブレていた国民の軸だ。

上の写真に特に意味はないが、なんとなく問われて「うーん」と唸っている様子に見えなくもないということで…どうでもいい下世話な話で恐縮だが、彼は便をしたとき、お尻を拭くのだろうか?やっぱり「人」として拭きたいだろうな。わかっちゃいるけど届かなぇ、てところですかね。
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by tabijitaku | 2010-06-03 00:05 | 私が私であるための1973枚


中庭、それは外。でも内側


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