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続小説的雑文 あるいは最後の1枚のための前奏のようなもの

東京の雪は、まるで通りすがりの一見の客のようだ。
雨になり、泥になり、氷になり、かつて雪であったものだけが街角に残る。

一夜明け、快晴の東京。
わたしは公園にいた。
園内には古い家屋や近代建築の建物が展示してあり、部屋の中に入ることもできる。
あの名作アニメ映画のモデルになったと言われる銭湯もある。

わたしはここで1ヶ月ぶりに、ある男と会う約束をしていた。
クリスマスイヴ。
鍋の匂い。
湯気の香り。
蛙の箸置き。
白い割烹着。
途切れ途切れの会話。
あれからもう1ヶ月がたったのか、と思う。
しかも、わたしはこの間、遠く離れた東欧の国に行っているのだ。

「50枚目の写真はどうした?」
彼は会うなり、すぐにそう言った。
わたしは苦笑する。

東欧旅行の旅の記録を、わたしは50枚の写真でブログに残そうとした。
しかし49枚の写真をUPしたところで、最後の1枚を更新する前に、わたしの中で生まれたふとした躊躇がブログ熱を奪ってしまった。

この10年間で、彼と会うのはこの日が2度目。
その前は賀状のやりとりしかしてこなかったし、10年前のことだってろくに憶えてやしないのだ。
転居通知の返信に、わたしがブログを始めた話を書いたら、以来彼はちょくちょくわたしのブログを見ていたようだ。
去年の暮れ「会わないか?」「会えないか?」というたった2つの言葉がわたしたちの10年ぶりの再会のきっかけとなった。


「出し惜しみはよくない。さっさと写真をUPしよう」
「別にそんな気はない」
「アウシュビッツは?行ったんだろ?」
「行ったよ」
「なんでその写真が出ない?」
「水色と黄色のツートンカラーの電車の写真見た?」
「…扉が赤い電車?」
「そうそう、あれアウシュビッツのあるオシフィエンチムの駅。それからラザニア味のスープ飲んだのも同じ駅。あれマジでウマいよ」
「で、50枚目の写真は?」


ブログを休止します、と書いたら、彼が非公開コメントで何か書き込んでくることは、ある程度予想していたことだった。
書き込みはまたしても1行。
「111111111」
うーむ、そうきたか。

「ポーランド土産があります」とメールを送る。
【日曜日は?】と書いてきたので、わたしが場所を指定すると、彼が時間を決めた。

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雪の残る公園は楽しい。
園内のそこかしこに雪だるまが現れる。
太陽の光に追い立てられながら、束の間の雪遊び。これも東京の冬景色だ。

ポーランド土産のメルセデスのショベルカーのミニカーを見て、彼は「ジェンクイェン」とポーランド語を使った。
調べてきたのか、マメな男だ。

「これ、どこで買ったの?」
「スーパーマーケット」
「ふーん、いい色だね」
「でしょ」


初めての欧州旅行だった。
まず、街を彩る鮮やかな色使いに魅了された。
看板、標識、日用雑貨、乗り物に至るまで、この国にあるものは何もかもがオシャレで洗練されていると思った。
街を歩いているだけでわくわくした。
それはわたしが漠然と想像していた「アウシュビッツのある国」のイメージとは遠くかけはなれていた。
更にこの国の住人には暗い影がなく、概ね紳士で基本的に社交性がある。
わたしはいっぺんにポーランドが好きになった。


「アウシュビッツは一面雪で覆われていてさ、まるで“ファーゴ”の世界だった」
「コーエン兄弟の?」
「そう。第二収容所のあるビルケナウは“シンドラーのリスト”や“白い巨塔”のロケでも使われた場所なんだけど、もう一面雪、雪、雪…」
「それは残念」
「いや、そう思わなかったな。むしろ、これがリアルなアウシュビッツなんだと思った。あの白の世界に囚われたら、ひとは逃げようとは考えられなくなるんじゃないかな」
「柵は?」
「あるよ。当時は電流が流されてたみたいね」


園内を並んで歩く。
著名な建築家の設計した自邸に入ったら、ボランティアのガイドさんが声をかけてきた。
通常は立ち入り禁止になっている2階に上がらせてもらう。
ロフト状の2階は寝室になっており、隠し扉の向うには屋根裏部屋があった。
「この建物は元々品川にありましてね、この庭の窓からは東京湾が見えたんです」とガイドさんが教えてくれる。
さすがに庭から見える風景までは移築できなかったのだ、と思ったら、庭に生えている木の位置まで正確に再現されているという。
パンフレットを見たら1942(昭和17)年建築とある。
これは、ポーランドにアウシュビッツが存在していた時期とほぼ重なる。


「なぁ、人を服従させようと思ったら、最も確実な方法はなんだと思う?」
「…絶望させることかな」
「まさに俺が感じたのもそれなんだよ。だから雪で覆われたアウシュビッツのほうがリアルだと思ったんだ」

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これは明治初期に創業した文具店。
店内は当時を再現して、書道道具が展示されている。
それにしてもきちんと整然された陳列はまるでデザインを見るようで美しい。


「彼女がさ、あの別れた女房だけど、どうも再婚したらしい」
「そうか」
「あれだな、離婚に未練なんか別にないんだけど、アイツが再婚したって聞いて、何ていうか俺との結婚はやっぱり間違ってたんだな、て証明されてしまったな感じがするよ」
「お前、その考え方は女々しいよ」
「だよな」
「好きなまま別れたわけじゃないんだろ?」
「ああ、でも憎みあってたわけでもない」
「じゃあ、なんで?て俺は訊いたほうがいいの?」
「いや、訊かれても答えられないな」
「…離婚する前、選択肢は見えた?」
「選択肢?ウチの場合、女房がもうそうと決めたあとだったからさ、俺はにはもう選択の余地はなかった…な」



わたしはアウシュビッツ収容所で1枚の写真を見た。
それは兵士が母子に銃口を向けた写真。
女は兵士に背を向けている。
腕の中には幼い子ども。
兵士は至近距離から母親の後頭部に銃の照準を合わせている。

その写真には“選択肢”というものがまるで見当たらなかった。

殺す役の兵士。
殺される役の母子。
そしてそれを写すカメラマン。

兵士が「殺さないこと」を選べたとは思えない。
女が「殺されないこと」を選べたとも思えない。
カメラマンははたして「写さないこと」を選べたのだろうか?
赤ん坊には最初から「生きること」を選択できる余地がなかった。


「選択肢がないということと、選択しないことを選択することは違う」
それがわたしがアウシュビッツにいる間、ずっと考えていたことだった。


駅前のファミレスでパスタを食べ、わたしたちは言葉少なに別れた。
次の再会は1ヶ月後かもしれないし、10年後かもしれない。
場所は東京かもしれないし、ひょっとしたら異国の地かもしれない。
家に着いて携帯を見たら着信が3件。
3件ともあの男である。
電話をかける。

「さっきの話、選択肢のない写真だけど」
「アウシュビッツのね」
「うん、あれ写真撮ったの?」
「撮ったよ」
「50枚目のポーランドの写真にする気?」
「なんで?やめたほうがいい?」
「いや、俺いつかその写真観に行こうかな、て思ったから」
「そういうの、何て言うか知ってる?」
「?」
「確定未来って言うんだよ。俺にとってアウシュビッツに行く事は確定未来だった」
「確定未来か、うん…いい響きだな」
「ポーランドに行く気になったらブレーン企画のオオツタさんというひとを訪ねるといい」
「旅行会社のひと?」
「ああ、地球の歩き方にも載っているよ」
「わかった」
「俺のもう1つの確定未来を教えてやろうか?」
「どこ?」
「チェルノブイリ」


例えば本を読むときは1ページ目から読む。
けれど、何かの拍子で本を落としたり、風でページがめくれたりして先のページが開いてしまうことがある。
そしてそのページに書かれた台詞や言葉が偶然目に入ってしまうことがある。
先読みしたページの言葉は、約束された未来を少しだけ覗く行為。
わたしにとって、確定未来とはつまりそういうことだ。

2005年暮れ、私はようやくアウシュビッツを訪れることができた。
それは人生を読み進んだことと言えるのだろうか?
アウシュビッツに足を踏みいれたことが自分の中で意味を持つのは、これから先だという気がする。

※フィクションです。
ただし、ブレーン企画さんの記述は本当です。
東欧、及びロシアにお出かけの際はご相談されてはいかがでしょう。
http://www.55world.com/index.php3.ja
by tabijitaku | 2006-01-24 01:48 | ショートストーリー


中庭、それは外。でも内側


by tabijitaku

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